たそがれ歴史の記憶


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天明の飢饉は日本最大の飢饉の一つ

天明の飢饉とは江戸時代中期に起きた日本の歴史上、最大ともいわれる飢饉の一つで、この時に出した死者の数は90万人から100万人以上ともいわれています。

当時の江戸時代の日本人の人口は3千万人に満たない数字でしたので、100万人が死亡したということは約30人に1人の日本人がこの天明の大飢饉で死んでしまったことになります。

ちなみに、中国の毛沢東は大躍進政策で4千万人の死亡者を出したとも言われていますので、この場合は本当に桁が違ってきて、中国と日本とでは人口の規模がそもそも違いますが、あまりの多い死亡者数に驚きを隠せません。

話を戻して、この天明の飢饉がなぜ起こったのかというと、当時、冷害が続いていたこともあったし、また不運にも浅間山が噴火し、火山灰によって太陽の光が遮られたことで、余計に農作物への影響が出てしまいました。

こういった悪条件が重なったことにより、天明の大飢饉が起こってしまったわけですが、これらの理由だけを考えると、原因は天災と言えなくもありません。

ですが、当時の有識者の中からは、この飢饉は、人災であると言う人も中にはいました。

(天災?人災?)
なぜ、天明の飢饉が人災と言われたのでしょうか。

天明の飢饉の舞台は主に東北地方だったわけですが、東北地方は、米を中心にしか農作物を育ててこなかったため、米がやられると他に代替する食物がなかったことがまず理由の一つです。

つまり、米がだめになったときの代替物を当時の大名は考えていなかったというわけです。

次の理由は備蓄米にあります。

通常なら緊急時に備えて備蓄米を蔵に用意しておかなければいけないのですが、当時は、現物主義というより現金主義に陥っており、備蓄米のほとんどをお金に換えるために商人たちに売り払ってしまっていたのです。

このために、東北地方の各大名たちは、農民たちが食料に困ったときに、緊急時の食用として何も配ることができませんでした。

これが人災といわれる理由の二つ目の理由です。

この東北地方の窮状を救ったのが当時の白川藩主だった松平定信です。

松平定信は藩、商人、農民それぞれに米を備蓄するためのルールを定め、それを徹底して守らせました。また、人にやらせるだけではなく、自分も率先してそのルールを守っていることをアピールし、配下の人たちの信頼を得ました。

定信のやり方がうまくいき始めると周囲の東北地方の藩主達も定信のやり方を習いに来て真似するようになりました。

松平定信は、この緊急時の対応が江戸幕府から高く評価され後後には、幕府の老中にまで出世することになりました。

(まとめ)
最近の日本では飢饉なんて言葉は全く聞かなくなりました。

それは過去に何度も飢饉を乗り越えてきて、そのたびにノウハウや知識や情報を蓄積してきたので、それが近代の農業に反映されているからでしょう。

私たちが今安心してお米を食べられるのは、そういった歴史の蓄積が、あるからということを感じると普段のご飯もより美味しく食べられるのかもしれません。

(PS)
ローリングに布団を敷いたらカビがはえました。
一人暮らしをすると、色々と知らなかったことが、毎日のように出てきますね。
歴史と同じで日々の学びが、大きな知恵へと積み重なっていく感じです。
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by tasopentax | 2013-06-01 22:39

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